ブルターニュの旅

ブルターニュの町
海に囲まれた美しい景観

フランス北西部に位置するブルターニュ地方は、英仏海峡と大西洋に突き出た半島で、豊かな自然と独自の文化をもつことで知られています。
エメラルドの海岸、ピンク花崗岩の海岸、険しい断崖が連なる海岸線と緑の島々が点在する海。また内陸部には伝説の森と湖、風車跡のある田園風景、壮麗な城など、素晴らしい景観が訪れる人々を魅了しています。

フジェール

フジェール(=シダ)に覆われた大きな森に清水があふれるこの地には、森に残されるドルメンメンヒルが先史時代から人々が暮らしていたことを物語ります。ブルターニュの玄関口としてヨーロッパ一の規模とと堅固さを誇る城塞が築かれ、イギリス、フランスの侵略から守っていました。

ブルターニュの独立が解かれた1532年からはノルマンディー、メーヌアンジュー地方との四辻としてナンソン川沿いにいろいろな産業が繁栄してきました。ヨーロッパ最大の家畜市場として賑わい、職人が集まり、靴製造で最盛期を迎えます。豊かになった町の中心は高台の商店街に移り、川沿いには中世の街並みがそのまま残りました。城の正門脇の木橋の袂から川沿いを歩く散策コースがあります。

Val Nançon公園は屋外彫刻や家庭菜園もある緑地ですが、見上げると高台の街全体が昔の城郭として聳え立ち現れます。その壁沿いへと上がると靴工房が並んでいた裏通りRuelle de vaux、その坂道を上り右手の階段を上り抜けると商店街へ。

バルザック「ふくろう党」もこの町を舞台にフランス革命が描かれました。革命軍に抵抗した彼らの暗号伝達に、ソバ粉を挽く風車が回ったり止まったり、町から町へと狼煙の代わりになったこともこの地方らしい逸話です。右奥にはヴィクトルユゴー劇場のある噴水広場。付近に残る古い靴修理工房が靴の町の面影を残しています。

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劇場の右を下ると城に戻れますが、商店街はそのまま左に折れて鐘楼はのある広場に。町の篤志家たちによって1397年ブルターニュで最初に築かれ今に残るフランス最古の鐘楼はこの町が自治都市であった名残です。商店街は時計博物館、そしてサンレオナール教会ピュブリック公園と続きます。植物園からフジェール城を見下ろす一角は、フジュレの結婚写真の定番スポット。城下町と緑豊かな田園風景のパノラマが開けています。急な斜面をつづら折りに下りシダを集めた一角を抜過ぎると植物園の出口へ。付近は中世地区で、近年まで使われていた共同洗濯場、また川で水汲みをして中州で菜園を作ったりする暮らしが今でも残っています。橋を渡ると木組みの家が残るマルシ広場にクレープリーや昔ながらのカフェも。左手にはギャラリーとして使われているサヴィニー館があり、その前の通りを石切り場見学場へ向かい、川沿いに戻ってくる散歩道もあります。ゴシック様式のサン・シュルピス教会へ抜ける小道から高台に上がった景色もぜひ。

アクセス パリからTGVにて1時間半のLaval駅からバスで1時間。国鉄・ローカル線TER路線図はこちら

時刻表はMa ligneで29番Fougères Laval路線を選んでダウンロードして下さい。

TGVも止まる城下町ヴィトレからは30㎞で平日のみバスがあり、レンヌとは9番バス、また17番バスでVillecartierの森を抜け、モンサンミッシェルのあるポントルソン駅へ行くことができます。時刻表は路線を選んで確認下さい。

ナンソン川はクエノン川と合流し、ブルターニュの豊かな酪農地帯を潤しながらモンサンミッシェル湾に注ぎます。モンサンミッシェルまで40km、続きはこちら

モンサンミッシェル湾の奥に位置する世界遺産の島。堤防からラヴァンセ門をくぐり進むと、土産物店、レストラン、ホテルなどが軒をつらねる参道グランド・リューGrande Rueが修道院まで続いています。

ケルト先住民にモン・トンブ(墓山)と呼ばれた聖地だったこの島に、708年に聖ミッシェルのお告げを受けたというアヴランシュ司教が礼拝堂を建てたのが巡礼の始まりとされています。709年に一帯に大水害があったという言い伝えもあって不思議なことですが、ずっと今まで1300年もの間、カトリックの聖地として多くの巡礼者の参詣が続いてきました。百年戦争の期間は島全体が要塞となり、島の入口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っています。18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され、国の監獄となった後の荒廃を嘆いたヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元されました。
礼拝堂の前庭からの雄大な眺めと、修道僧が静謐な時を過ごした空間の対比には息をのむほどです。

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ヨーロッパ最大の干満差が観測され、かつては満潮になると島への道が消えてしまい、四輪馬車の速さで満ちてくるという波にのまれた方も数多い巡礼の難所でした。19世紀には島へ渡る堤防にによって結ばれ、有名な観光地になっています。堤防は潮流を妨げないよう現在改良中。

島内はメインの参道のほか、城壁外周を辿る道、また迷路のように階段もめぐらされ、ちょっとした裏道からも見晴しが望めます。ぜひゆっくりご探索下さい。

島外には海や干潟、草原が広がり、豊かな生態系の宝庫はラムサール条約にも登録されました。干潟部分は満潮時は海に覆われ、干潮時はモンサンミッシェルの周りを一周できるほど潮が引きます。周辺は危険な流砂床があって自由に歩けませんが、ガイドを伴う散策するツアーも。

干満潮の大きさと時間はこちらです。また干潟が育む豊かな生物により、モンサンミッシェル湾はプランクトンが豊富。カンカルまで続くモンサンミッシェル湾は古くから貝類の名産地です。Vivier sur Merでは木の柱にムール貝を縄で巻き付けた養殖も盛んで、広大な干潟を走る見学バスもあります。湾の対岸、カンカルは牡蠣や魚介で有名なグルメの町。続きはこちら

アクセス (※英語ですがモンサンミッシェルへの行き方を説明しているページはこちら

鉄道/バス パリのモンパルナス駅からTGVでレンヌRENNESまで約2時間。レンヌ駅からモンサンミッシェル直通のバスが出ています。あるいはモンパルナスからGranville方面の電車に乗りFollignyで乗り換え、モンサンミッシェルに一番近い国鉄駅ポントルソンPONTORSONまで行くルートもあります。そこから10km離れたモン・サン・ミッシェルまでのバスが運行しています。列車の時刻表に合わせて運行。このページからダウンロードできます。
またレンヌ駅北口サンマロ駅からはモン・サン・ミッシェル直通バスが出ています。時刻表はこちら

ブルターニュ観光局制作によるモンサンミッシェルのビデオはこちら

モンサンミッシェル湾の豊かな干潟が作り出す栄養素は魚介の美味しさとなり、干潟に生える草で育つ仔羊プレサレなど、カンカルにはグルメの町として世界中の食通が集まります。モン・サン・ミッシェル湾に隠れた小さな港町で、ナポレオンが愛した牡蠣の名産地。ピエ・ド・シュヴァル(馬の脚)という平カキは、フランス古来の品種。プランクトンが豊かな湾で、満ち干きの厳しさに鍛えられた牡蠣の濃厚な味が作られます。牡蠣博物館では養殖の歴史の説明や加工場の見学、世界の貝を集めたコレクションもあります。

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満潮時には水面に漁船が浮かぶ水墨画のような静けさのカンカルも、潮が引くと寒風知らずの若者たちが乗る養殖のトラクターが行き交います。この活気ある港には海の幸料理の店が建ち並び、店頭に並ぶ海産物にはのんびり食事をする楽しみに誘われます。クレープリーブレッツカフェはここで生まれ、地場の素材を日本の調理技術で新しい料理に昇華させる久高シェフもここカンカルで活躍中。

また灯台下の牡蠣直売所で剥いてもらった生牡蠣に、持参のパンと白ワインをその場で楽しむ人々も。食後には海沿いの散歩道サンチエ・デ・ドアニエで、カキの養殖場を手前に見つつモン・サン・ミシェル湾を一望できます。360度の眺望、グルーアン岬の絶壁まで7キロ、またそこからサンマロまでの18キロの海岸線には弓形のビーチやイギリス領ショーゼー島を遠くに眺める岬も次々現れ、深い入り江が内海を成す松原など風光明媚そのものです。心洗われるひと時をお過ごしください。

このサンチエ・デ・ドアニエ(Sentier des Douaniers=税関史の道)はカンカルから始まり、南ブルターニュまで続く海岸遊歩道です。密貿易を取り締まる税関史が巡回していた時代に触れるには、かつてフランス最大の貿易港であったサンマロへ(続きはこちら)。

大航海時代から18世紀までフランス最大の港であったサン・マロ。
商人たちやコルセール(外国船から獲物を奪う権利を王により与えられた民有武装船)の拠点港と繁栄を誇っていました。1534年から1542年にかけての間にジャック・カルティエがカナダを発見。1701年にグワン・ド・ボーシェンヌは1701年にホーン岬へ到達、1711年にリオデジャネイロを占領したシュルクフは、サンマロの街に計り知れない威光をもたらしました。私掠船が廃止となってからもサンマロはアメリカ大陸進出の港としての役目を続け、ニューファンドランド島への遠洋漁業で町の活気は続きます。しかしながら1944年の大戦で街は焼け野原となり、城壁内の8割が破壊されてしまいました。
その瓦礫を使った歴史に基づく忠実な修復によってサンマロは見事な復興を遂げ、今日も商船学校や水産高校などから海の仕事の人材を多く輩出し、タラソテラピーや海藻から化粧品やプラスチックを作る技術などの研究も先端を進んでいます。
モン・サン・ミッシェル、カンカル方面、またフレエル岬までの「エメラルド海岸」をぜひお訪ね下さい。

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サンマロ城塞南の港からは、近くの島々やチャネル諸島やイギリスに渡るフェリーのほか、帆船航海ツアーもあります。また連絡船でたった15分でランス川対岸に着くと歴史あるリゾート地ディナールに。ランス河口に20万人もの電力を提供する潮力発電所を訪ねながら16番バスでも渡れます。海沿いに建てられた独特の建築様式の城館やカジノのある街は映画の舞台にもなり、毎年10月には国際映画祭が開催されます。

フランス湾沿いにはサンシュリアックのような漁村の名残をとどめる美しい町や、生態系豊かな湿地帯や潮力水車が点在しています。ランス湾奥の城下町ディナンや古書店の街Becherelを通るレンヌへのバス(illenoo7番)は1~2時間毎にあります。

イル川とヴィレーヌ川の合流地点のこの地に首都を定めたケルト系アルモリカ王国は、モン=サン=ミシェルの湾まで領土を広げていました。紀元前57年にローマ帝国が侵入したものの独自の貨幣を持ち、町の戦略的位置が発展のきっかけとなります。5世紀にはフランク族が侵略しますが、ブリテン島からケルト系ブリトン人が戻りレンヌを再興しました。1356年に今度はイングランドのランカスター公に包囲されますがベルトラン・デュ・ゲクランが守りきります。しかし1491年にはフランス王シャルル8世の軍によりレンヌが攻撃され、レンヌの防衛軍の死ぬまで抵抗する覚悟で戦います。しかし既に他のブルターニュの都市も侵略され、市民のあまりにもの犠牲にブルターニュ女公アンヌはシャルル8世との結婚をこの地(現在のジャコバン修道院)で受け入れ、公国は以来フランスへ併合されることになりました。この女公は清廉潔白の象徴「白テン」をブルターニュの紋章に使いはじめました。
高等法院が設置され法衣貴族の邸宅が造られましたが、街の大部分は中世の木組みの建物、1720年の大火事で945軒が焼失してしまいます。第二次世界大戦中も度重なる空爆で多くの市民が犠牲になり、木組みの家は旧市街区に焼け残るだけとなりました。戦後は自動車産業と電気通信産業により発展し、フランス初のテクノポリスブレイス語の二言語学習を受けられる大学もつくられ、人口の4分の1が学生の都市圏として活気を有しています。

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新古典主義建築のサン・ピエール大聖堂がある旧市街は古き良き時代のレンヌに思いを馳せることができる界隈。ブルターニュ地方でも有数の史跡、旧ブルターニュ高等法院では金箔装飾の施された天井のある大法廷が、17世紀に花開いた高度な装飾技術を今に伝えています。フランスで最も美しいマルシェの一つであるリス市場には毎週土曜日の朝、地元の300以上の生産者が集まり、農産物豊かなこの地方で真の親睦のひとときを楽しめます。ここで売られているCoucou de Rennes というニワトリや、地方固有種の家畜は地下鉄Triangle駅から歩けるエコミュゼでも育てられています。

ラトゥール等やポンタヴェン派の作品を所蔵するレンヌ美術館、聖ジョルジュ修道院とその近くのタボール庭園(Parc du Thabor)の散策で心地よい時間を。

TGVでパリから2時間。南東へバスで7km離れたレンヌ=サン・ジャック空港は国内外の各都市と結ばれています。Paimpontブロセリアンドの森(地図はこちら)、Dinanなど近郊の街へ行くバス路線もあります。

TGVやローカル線TERでサンマロ、またサンブリユーブレスト、ナント、カンペール方面へ。続きはこちら

TGVでは終着駅ブレストへ行くまでに、コートアルモール県のランバル ブレア島などへの起点サンブリユーシャトロードレン、ピンク花崗岩の海岸ペロスギレックへの起点Guingampなどを訪ねることができます。バス路線はこちら

フイニステール県に入ると、海の中の要塞と歴史の街モルレーや、アイルランドやイギリスプリムスへの港と紫玉ねぎの町ロスコフも訪れたいです。

終着駅はブレスト。「地の果て」(フィニステール)という呼び名にふさわしく、高い岸壁のリアス式海岸に大西洋の荒波が砕けます。内陸部も起伏の激しい牧草地、森、荒野が広がる地ですが、陸路から遠いこの地方にはブルトン民族の文化が多く残っており、観光客を魅了しています。

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ブレストは昔からフランス海軍最大の軍港であり、サンマロ要塞と同じくヴォーバンによって城塞が築かれました。先の大戦で街の大部分が破壊されましたが、貨物船や漁船が行き交う商業都市として賑わっています。また西ブルターニュ大学や海洋研究所などが集まり市民の1割以上が学生と研究者。江戸時代から交流が続く横須賀市とは姉妹都市になっています。

帆船祭や、フランス最古の自転車レース、パリ・ブレストで有名で、車輪に見立てたシュー菓子「パリブレスト」も本場でいかがでしょう。

海軍博物館となっているブレスト城、水族館オセアノポリスのほか、家々の建つ橋で知られるランデルノー、プルガステルのいちご博物館、やフランス最西端のコールセン岬も。またアメリカ大陸に行く前最後に寄る島、ウエッサン島はミツバチや羊の固有種で有名なブルターニュの宝島。連絡船は要予約です。

内陸をブルターニュの東西で横断するブレスト・ナント運河は、川沿いの美しく歴史ある町、ルファウ、ポンティヴィ、ジョスラン、マルストロワ、ロッシュフォールアンテール、ルドンを自転車や免許不要の船旅で巡ることもできます。

同じくブルトン文化が色濃く残っている町、カンペールへはTERで1時間ちょっと。つづきはこちら

フィニステール県の県庁所在地カンペールは、サン・コランタン大聖堂を中心に、中世を偲ばせる街並みが続き、歴史と芸術が息づいています。川の合流地点を意味するブルトン語Kemperに由来し、古代からの交通の要衝として発展しました。6000年前の石器も発見され、紀元前2世紀にガリア人都市があり、カエサルも、カンペールはガリア系のオシム人(Osismes)の都市でったと記録しています。ローマ人の侵入後には浴場も造られ、このガロ=ロマン時代の都市が存続したと考えられますが、5世紀の伝承では水没した都市イスを逃れたコルヌアイユ王グラドロンが聖コランタンに自身の城を贈ったことが大聖堂の由来とされ、中世以降司教町としてブルターニュ公と拮抗しながら発展しました。コルヌアイユ地方(コーンウォールと同義)という古称も残されています。1863年にカンペールに到達した鉄道は海浜リゾートの発展に、また海産物の保存食品、野菜や果物、ジャムなどの農業・食品製造業は長く経済基盤となり、繊維工業および軽機械工業、ロクマリアの粘土を利用したカンペール陶器産業も経済成長に貢献しました。

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大聖堂と県立ブルターニュ博物館陶器博物館ではカンペール焼の歴史や貴重なコレクションを見ることができます。
ブルターニュ各地の民族衣装を纏った人々が民族音楽を奏でるコルヌアイユ祭りは毎年7月。

カンペールの北にはドゥアルヌネ、フランスで最も美しい街の一つとして知られるロクロナン。モンゴル民族もここまで遠征してやっと「地の果て」があることを知ったラ岬。津波によって一夜で姿を消したという都市イス伝説も残される美しい海岸が続いています。このフィニステール県南西部、ビグデン地方らしさが最も色濃く残された町が刺繍衣装の美しさで有名なポンラベ

そして南へ、コンカルノーは、ヴォーバンの築いた城塞と美しい港で知られ、白浜とアクアマリン色の海が魅力のグレナン諸島への起点です。

美術の街ポンタヴェン、水の町、カンペルレなどへもTGV・TERまたはバスで。バス時刻表は最下欄にバス路線を選んでダウンロードして下さい。

モルビアン県に入ると港湾都市ロリアンへ。町の大部分は先の大戦で焼失しましたがエヌボンポールイに素晴らしかった街並みがしのばれます。ドルメン、メンヒルの列石で有名なカルナックからキブロン半島に行くと、あこがれのリゾート島ベルイルに渡れます。オーレイからヴァンヌ、シュシニオ城のあるリュース半島に囲まれたモルビアン湾に浮かぶ無数の島々はまるでフランスの松島湾。

そのまま東に向かうとヴィレーヌ川河口のラロッシュベルナール、塩田で有名なゲランドを経てナントへ。

TGV・TERは路線を選んで時刻表へ。モルビアンバスも利用できます。

ロワール川が大西洋に注ぎ込む河口の町ナントは、10世紀から16世紀までブルターニュ公国の中心地でした。アンリ4世が1598年、長年にわたるカトリックとプロテスタントの対立を終結させ、信教の自由を認める「ナントの勅令」を発布した街です。ブルターニュがフランスに併合されて以降も海運で栄え、ナントの船主たちはアンティル諸島とアフリカ三角貿易を行い、砂糖と香辛料を輸入して富を蓄えました。18世紀にはフランス貿易全体の4割をナントが占め、フランス屈指の貿易港として現在も重要な役割を担っています。

ナントのシンボル、ブルターニュ大公城(Château des Ducs de Bretagne)、サン・ピエール・サン・ポール大聖堂、フランス一美しいと言われるアーケード「パッサージュ・ポムレイ」など、ナントの繁栄ぶりをうかがわせる数々の歴史的な建造物。またナントからのエルドル川クルーズでは川の両岸に次々と城が現れ、ナイトクルーズではライトアップされた城が川面に映し出されます。

製塩で有名なゲランドや生態系豊かな湿地帯へもバスで行くことができます。夏の路線図はこちら通年路線図はこちら

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ナント美術館(Musée des Beaux Arts)やジュール・ヴェルヌ博物館にとどまらず、ナント島周辺の河沿いには屋外アートがいっぱい。サン・ナゼールまでの河口地帯に現代アートが並ぶイベントエステュエール・ビエンナル、毎年11月から12月に開催されるナント三大陸映画祭も有名ですが、毎年のクラシック音楽祭ラ・フォル・ジュルネ、人間機械を作る集団ラ・マシンはなど世界的に知られる文化発信もこの街からです。

ロワール河の白ワイン、ロワールの森のジビエ、また海の幸など豊かな料理を堪能できるのも河口の街ならでは。ここからロワール川の森の奥へとシャトー巡りの旅も素敵です。

ところでなぜナントはブルターニュ州に属していないのでしょう?

ナントの地に最初に定住したのはケルト人で、紀元前70年頃ガリア人の一部族であるナムネティ人が町を築いたことが都市名の由来です。カエサルによる占領後、ロワール河口地方の主要な都市となりますが、280年頃、サクソン人海賊の襲撃から守るためにブリテン島から駐屯部隊がやってきたと考えられ、エルドル川沿いにブルトン地名が多く残されています。歴代の公爵・公妃はいずれもナント大聖堂か近郊の修道院に埋葬されてきました。フランス革命の1789年、フランスの歴史的な州が廃止され、フランス全土は県として再編された際、ナントは現在のロワール=アトランティック県となります。更に1941年ヴィシー政府によってこの県はブルターニュから切り離され、旧メーヌ地方、アンジュー地方、ヴァンデ県と共にペイ・ド・ラ・ロワール地域圏を形成することになります。ブルターニュの歴史と文化についてはこちら

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