ブルターニュの
文化・アート

ブルターニュの巨石文化は紀元前5000年もの新石器時代にさかのぼり、ケルト人 以前の先住民による遺跡と言われています。ヨーロッパでは巨石記念物(メガリス)がキリスト教徒によって組織的に倒されますが、自然崇拝の続くブルターニュでは多く残されました。

単一で直立した立石メンヒル(menhirブルトン語の「長い石」を意味する単語に由来しますが、どのような意図で立てられたのかは解明されておらず、メンヒルを立てた人々の言語も分かっていません。Kerloasにある9.5メートルで立つメンヒルは最も高く、またかつて約20メートルの高さがあったロックマリアケールの4つに割れた巨石もあります。

カルナック列石3000以上のメンヒルが3つのグループに並べられ、東西数キロメートルにわたって整列しています。長方形の対角線の延長が夏至・冬至の日の出、日の入りに合っているなど太陽崇拝の関連性があるようです。

ブルトン語で「石の机」を意味するdol menを語源とするドルメンはブルターニュ地方に多く見られ土に覆われた古代の有力者の古墳でした。紀元前6500-4500年にはヨーロッパ全域に農耕が普及し、上級階層の墓として徐々に巨大な支石墓へ発展したと考えらます。その後上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた紀元前2000年頃には西ヨーロッパの支石墓は消滅し、土も風雨により流されて巨石が露出しています。

石墓の副葬品からは美しい工芸品も発見されました。翡翠で作られた装飾が施された飾斧、calaïsという緑の石で造られたジュエリーと見事なネックレスもみつかります。ガイヤール城(夏期のみ)カルナック先史時代博物館またロッシュフォールアンテールの中世村の隣にある先史時代パークでは50万年前の原人からの生活が再現されています

紀元前1800年頃、銅と錫の鉱脈が豊富なブリテン島南部とブルターニュで青銅器の製造が始まり、ウェセックス文化又はアルモリカ文化と呼んでいます。その後8世紀頃、ヨーロッパに初めて鉄を使いこなす民族が現れました。 後にギリシア人により、ガリア人、ケルト人と呼ばれた彼らが、ヨーロッパ人の先祖「ケルト民族」です。 紀元前の500年間には、その活動範囲、高度な文化の面でも絶頂期を迎え、ローマ人によって支配されるまでの間、ヨーロッパ全土で栄華を誇ります。かつては前12世紀~前6世紀の中部ヨーロッパの鉄器を中心とするハルシュタット文化、前5~後1世紀の中部ヨーロッパからイタリア北部にかけては具象描写が装飾的なラ・テーヌ文化、そしてアルモリカでは幾何学的な装飾が特徴でした。

古代ケルト人の自由の精神は、度重なる民族移動、多神教、また見るものに解釈の自由を残すという芸術表現に現れています。優れた農耕技術をもつケルト人たちは、ヨーロッパを穀倉にしました。この農本主義経済がケルトに豊かな富をもたらし、彼らの自由な精神性の基盤となります。豊かさは絢爛豪華な彼らの装飾芸術にも象徴されています。トルクと呼ばれる首飾りなど装身具の装飾、生活用品に施された模様の緻密な技巧。自然をモチーフにしたものが装飾性を増し、幻想的な模様へと進化をとげていきました。

テムズ川で発見されたバタシーの盾は、紀元前54年シーザーがテムズ川を越えてきた際のケルト戦士のものらしく、美しい武具を身に着けた戦士の高貴さが今に伝わってきます。

彼らは曲線を好んで用いました。ローマ人の用いた直線はその有限性が好まれず、ケルト人たちの間にはあまり広まりませんでした。迷宮のような曲線模様には始まりも、真ん中も、終わりもなく、外に向かっていたものがいつしか内へ収斂していきます。渦巻き模様の多用、内側に同じような模様が繰り返されるフラクタル的な模様もみられます。このケルトの人々の自由奔放性、不確実性への嗜好は、自然というものを捉えていた彼らの視点を透かしてみせてくれるようです。私たちが今世紀になって証明した科学も古代ケルト人たちの目には既に明らかだったのかもしれません。合理主義によって忘れられようとしている、人間のもつ想像力やひとつのものを多面的に捉える姿勢。ケルトの文化遺産を、今日の皆さんの心のどこかにぜひつないでいただきたいです。

  先史時代から中世までのブルターニュの美術品はレンヌ図書館併設のmusée de Bretagneに分かりやすくまとめられ、またカンペールの県立博物館にも良いコレクションがあります。

ローマ人侵入後も人々は神秘的な生活を続けます。ドルイドDaru-vidは「オークの賢者」の意味で、万能薬ヤドリギの巻きついたオークの木の下で儀式を執り行い、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたそうです。ガリアのドルイドは自然科学ピタゴラス派の影響で学問の体系化と組織的教育を行いますが、アルモリカやブリタニア、ヒベルニア(アイルランド)のドルイドは祭祀者のまま衰退しました。彼らが政治の表舞台から姿を消すと、人々は古い習慣を自ら守ろうとし、何世紀もの間因習にとらわれた日々を送ることになります。

ケルトの諸部族には共有する神は居ず、政治的に統一されることがありませんでした。ローマのマルス神はレンヌの守護神ムッロと同一視されてマルス・ムッロ寺院が造られたり、ヴィレンヌ川守護のウィシヌス・マルス神という合名神へ捧げた石板も出土するなど、他民族の神々とも共存していきます。

キリスト教が導入されてからも、人々は隆起した石を崇め続けます。巨石崇拝の慣習がキリスト教にも許容されたのは、サンテュズーのメンヒル menhir de Saint-Uzecのように彼らなりの信仰心から石に十字架を刻んだためでした。後年十字が刻まれたメンヒルは、今でも十字の石柱として路傍に数多く立っています。

ナントで453年、レンヌ・ヴァンヌでは461年からキリスト教宗教会議が開かれ内陸からのキリスト教流入が行われました。沿岸部ではウェールズからは次々と修道僧が渡来し、ドルドブルターニュに聖サムソン、聖ポール(レオン)、聖ブリアック(サンブリユー)、聖マロ(サンマロ)などが布教をはじめ、創始7聖人の開いた聖堂7か所を巡るツアーもあるほど信仰を集めています。布教にあたっては自然信仰を利用しつつ改宗を進める方法が取り入れられましたが、この時代はブリテン島からブルトンが再来し、ブルターニュはますますケルト文化がますます濃くなっています。

111日、2日の万聖節はフランス全土で大移動があり、墓参が行われる重要な日で、聖人だけではなく先祖、身寄りのいない死者、埋葬されない海難者など全ての死者に皆で祈りを捧げます。このキリスト教化した祭日は、実はケルト新年と諸聖人の祝祭が起源で、英語でサウィーンSamhainという古代ケルトの最も重要な祝祭でした。

ブルターニュでは前夜に聖霊が集まると信じられ、家の周囲に蝋燭を灯して悪霊を驚かせる風習が近年まで続いていました。カボチャを灯すハロウィンの祭りがそれで、移民により伝統が継がれたアメリカから逆輸入されて復活しました。降誕祭(クリスマス)も元々ケルトの冬至の祭りがキリスト教化したものという研究者の見解です。ほかにも夏至である聖ヨハネの日の焚火で太陽に力を与える儀式や、年に一度信者が恩赦を願って聖域巡礼を行うパルドン祭が続いています。中でもロクロナン村の伝統衣装で一週間巡礼を行うトロメニーは美しい祭礼として知られています。

このようにキリスト教は数世紀をかけて人々の絆や死者への敬意といった概念を取り入れ、異教とその神秘を共有します。またブルターニュの人々はローマ文化やキリスト教と融合し、信仰によってインスピレーションを得たアーティストたちは、自由の精神を保ちながら伝統を忠実につないでいきました。

7~9世紀の修道院で装飾写本が制作されて、ケルト美術に新たな発展が生み出されました。世界で最も美しい本と呼ばれる8世紀の聖書「ケルズの書」などテクストと装飾文字の視覚とで神力が現れそうです。渦巻き、組みひも、動物などをモチーフとした写本の文様はタラ・ブローチなどの工芸品にも共通し、ラ・テーヌ期よりも強調された装飾性に圧倒されます。またこの時期独自の書体「インシュラー・ハーフ・アンシャル体」がウェールズとブルターニュ共通で使われ始め、ケルト文字として今日アイルランドで使用が勧薦されています。

ブルターニュ花崗岩のベージュや灰色の建物と街並みは、初めて訪れる人に重苦しい印象を与えますが、新しさや古さを感じさせずに調和の風景を作り出しながら何世紀もの風雨をのりこえて残されています。しかし中世にフランス侵攻や海岸からの襲撃に備えて建造された石造りの巨大な城砦は、宗教施設とは異なり、苔むして荒廃の一途を辿りました。フジェール城のような規模と堅固な作りは当時の激しい攻防を想像できます。

宮殿も兼ねた城も後年作られ、その後はサンマロなど17世紀の軍事技術者ヴォーバンの建築理論が導入された海岸線防御の城砦も造られます。ただ全体としてブルターニュの城に共通する点は、代々の城主は日頃から剣を身に着け質素な生活を送り、自ら農園経営に熱心なかわりに城内の装飾にあまり熱心でなかったことです。

そんな中世に花開いた騎士道物語の元はブルトンたちが口承で伝えてきた数々の物語です。

古代ケルトではアイルランドのハープに象徴されるように、音楽や芸術が大切にされてきました。日本人になじみの深い蛍の光などスコットランドやアイルランドの民謡も、古代からの謡が大切にされてきたのです。歌い手として高い地位をもつバルド(吟遊詩人)が、一族の歴史と系図を朗読して英雄伝を語りました。そこから口承文芸も生まれ育ち、神々や英雄、獣、自然などをたたえる様々な話が生まれました。超自然的な存在や、神秘的なことがらが大切にされたブルターニュでは特に不思議な話、陽気なほら話、歴史と冒険の話など、あらゆる伝説の宝庫となります。また中世の暗い夜に耳を傾けた人々の想像力を呼び起こしたように、口承で伝えられた吟遊詩人の発する言葉と力強い寓話の骨格は、「アーサー王物語」をはじめ、誰もが知る「ガリバー」、「ピーター・パン」、「人魚」などの物語のもととなり、現代の芸術家にも影響を与えています。

バルドの伝承を記した12世紀の『ブリタニア列王史』にはシェイクスピアのリア王のモデルと言われる紀元前5世紀のレイア王物語、また5世紀後半のアーサー王の物語があります。魔力を持つメルランが湖の妖精ヴィヴィアンに愛されて森に閉じ込められる物語は同じ作者の詩『メルランの預言』が元で、メルランはケルト賢者として描かれていました。またリンゴの島アヴァロンを治めるモーガン・ル・フェイは学識と医術でアーサー王を助ける女ドルイドを想起させる人物像ですが、後年騎士道文学では妖術使いの魔女と描かれてしまいました。

ブロセリアンドの森に運ばれたキリストの聖杯をアーサー王とランスロら12人の騎士が探す円卓の騎士物語、コルヌアイユ王マルクが求婚するイゾルデを取り戻そうと甥トリスタンをアイルランドに遣わし、帰路の船で間違って媚薬を飲んだトリスタンとイゾルデが恋に落ちてしまう物語なども加わり、中世騎士道文学は宮廷の人々や民衆を夢中にしました。

 

 

 

またほかにも6世紀コルヌアイユの姫ダユーが町を守る水門の鍵を悪魔に渡してしまい、首都イスが水没する説話がありますが、元々のイス物語は少し違っています。平和で豊かな国、コルヌアイユの王グランドロンは、首都イスに教会を建てよというローマの要請に対して、既に建物が過密な街中ではなく街の外を提案しました。

この地で布教をしていた修道士コランタンとゲノレはその提案に理解を示しますが、ローマは街を滅ぼして教会を建てるという命令で、市民は驚きます。
王は仕方なく街中の教会建設を受け入れますが、大地を愛する娘のアエはアレ山に登ってケルト神ケルヌノスの助けを求めます。夜町を救いに来るからとアエを町に返したのですが、夜には大水が来て町は水没し、王と2人の教徒だけが救われたという物語です。海の中の人々は今でも永遠の生を得るのですが、悲しみの王は同じ場所に街を造らず、カンペールを首都としてコランタンと共に聖堂を造りました。現在ではアエは山の精に堤防を造ることを相談に行ったと考えられ、ブルターニュでも海岸地方の水害が時々起こることを子孫に言い伝えたと思われます。

吟遊詩人たちとは別に、修道院ではラテン語で歴史、キリスト教史、道徳と哲学を学んでいました。ブルターニュの聖人の物語が修道院で書かれたり、普遍は存在しないという唯名論を起こしたアベラールが12世紀に現れますが、15世紀にナント大学が創設されると歴史家や詩人など多くの作家を輩出するルネサンス時代を迎えます。

ケルトの風習の一部はキリスト教にも取り入れられて公のものになりましたが、ブルターニュでは異教的とされた民間信仰も多く残されました。妖精コリガン、コビト伝説などのほか、魂が帰ってくる夜に掃除をしてはいけないというような異界との交流を避ける知恵や、休息日である日曜に洗濯をすると罪の赦しを請わなければならない、といった因習です。病気ごとに奇跡治癒の諸聖人がいたり、民間人にも病気治癒の霊能者がいると信じられ訪ねに行くことが現在でも続いています。16世紀半ばから西欧で盛んになった魔女狩りもブルターニュでは稀だったことも、それだけ俗信が根を深く下ろしていたと言えます。異教を退散させる象徴として聖ミッシェルをブルターニュの入口(モンサンミッシェル)やアレ山地に据えたなど、教会はそうした因習の排除につとめていました。

一方16世紀キリスト教では、宗教改革にが盛んになり、カトリック教会も刷新が行われます。洗礼と聖体拝領以外の秘跡を認めない新教に対し、トリエント公会議(154563)の結果、カトリック教は秘跡を中心とした教会生活を再興します。これによって異教的な伝統があるブルターニュですが、却ってカトリック教会への帰依がますます強くなったのでした。1660年に開学したレンヌ神学校では聖職者養成が始まり、修道院の建設も盛んになります。17世紀に入ってカトリック教会は妖術使いや占いなどを断罪し、迷信の一掃を図りますが、真の布教がなされていなかった地区では困難を極めました。悪魔祓いには信仰を持って十字を切ったりお祈りをするとよい、などと説明するしかなかったこともありますが、聖史劇や図絵を用いた視覚に訴える布教方法は功を奏し、ブルターニュに数々の宗教芸術をもたらします。

ブルターニュがフランスに併合されてから享受した平和と大航海時代の繁栄。蓄積された富は建築物に向かいます。16世紀から17世紀にかけてのバロック建築ではブルターニュ地方独特の特徴が加わり、建物内外の美術に一連の様式が生み出されました。教会内のアンクロ・パロワシャルという区画は門と塀による囲いのある聖域で、凱旋門から入り墓地・納骨堂を通って荘厳な入口を構えた聖堂と鐘楼、そしてキリストの生涯を彫刻したカルヴェールなどが配置されます。囲いの中心に墓地があることが多く、死を日常のものとするケルトの精神生活が復活したかのようです。教会の鐘楼である高い塔は民衆の誇りとなり、人々が集う大きなポーチが南側に設けられました。フレスコ画は少なく、教会の柱や内壁、祭壇に過密な宗教彫刻が施されていることも特徴です。秘跡の大切さを教えるために製作された立派な洗礼所、告解室、祭壇飾り、オルガン装飾、聖人の像、よい臨終を想起させる聖ヨゼフ、結婚の秘跡性を教える聖家族など、当時の反宗教改革が力を入れたカトリック信仰教育のポイントが見てとれます。この聖堂囲い地は数多くあり紹介しきれないほどですが、フィニステール県の案内はこちら またフランスでは少ない聖アンナと聖母子の三位一体のテーマが、ブルターニュの教会装飾に多いことは、聖母の母であるアンナがヨーロッパ文化の母体であるケルトを象徴しているからとも、アンヌドブルターニュへの追慕からとも言われています。

刻家たちの情熱は教会外へも飛び出し、過度ともいえる装飾が施された家具にも現れました。Lit Closと呼ばれる独特の箱ベッドなどブルトン家具は各地の博物館を訪ねてみてください。

また17世紀末、ロクマリアの南で産出する砂岩質の粘土を利用したカンペール陶器は、太陽、海、花、鳥などが文様的に描かれた伝統工芸です。カンペール陶器博物館は工房見学や古くからのコレクションを鑑賞できます。300年後の今も続くこの陶器の伝統模様は一人の芸術家だけで作り得ない価値を宿し、壮麗さを抑え、自然の風物とともにありたいと願った何千年もの昔からの心を時代を超えて私たちと分かち合うことができるようです。

この時代、ブルターニュに聖職者が増えるにつれ学問が盛んになり、「ギリシャ・ローマに先んじたガリアがフランスの起源である」という思想が築き上げられていきます。ヨーロッパでは支配者たちの人口移動は男性を中心に数パーセントに過ぎず、言語は支配者のものと代わっても、ヨーロッパ人は大多数のケルト民族の子孫であることが考古学的にも明らかになってきました。フリーメイソンの生みの親ジョン・トウランドは、1717年に「古代ドルイド団」を結成するなど、ケルト復興の兆しが起こります。

18世紀に現れたケルトマニアに続き、学術分野でも19世紀にはケルト学が盛んになります。考古学の発展につれてケルト人が後年ガリア人と呼ばれたことが確認され、レンヌ大学ではケルト語の講義が始まりました。

ケルト文化の発掘は18世紀ベートーベンが「庭の千草」を含む140曲ものケルト民謡の編曲作品に現れるなど、大きな文化的潮流を生み出します。日本でも明治から大正期、文学や音楽に大きな影響が与えられました。文部省唱歌として選ばれた讃美歌・西欧音楽の中には多くのケルト民謡が含まれ、「蛍の光」などは地元スコットランドより日本人により多く歌い継がれているのです。大戦後はマンガのアステリックスがフランス人にシーザー時代のガリア(ゴロワ)人のイメージを伝えました。またケルト民謡を演奏するミュージシャンが増え、フォーク音楽やロックと民謡の融合などに裾野がひろがります。1970年代からロックのトリ・ヤン、ケルトハープを蘇生したアラン・スティヴェルが代表するブルトン音楽の再興として知られています。日本でもアイルランドのエンヤがケルト音楽旋風を巻き起こしたことも最近のことです。ほかにもロリアンのインターセルティック祭、カンペールのコルヌアイユ民族音楽祭、そうした大きな祭典ではなく日常的に伝統ダンスパーティー「フェスノズ」があったり、路上やバーやレストランでビニュー奏者が演奏したり、ホームパーティーでも食事後ブルトン音楽が流れて輪になって踊ることが伝統として続いています。

19世紀には鉄道もなくぽつんと孤立した田舎町、ポン=タヴェンに突如画家たちが集まり、流行の土地となりました。ブルトン語や民族衣装が保存された小さな町と田園地帯は、画家たちのインスピレーションをかきたて、既存のアカデミズムの絵画に飽き足らず新しい絵画技法を探究するポン=タヴェン派の誕生です。このポール・ゴーギャンエミール・ベルナールポール・セリュジエ、らの作品をレンヌ美術館、(ラトゥールの「みどり児」もお見逃しなく)、カンペール市美術館ブレスト美術館など本場の豊富なコレクションからお気に入りの一枚を発掘してみてください。

20世紀、ブルターニュで青年期を過ごしたアンドレ・ブルトンに「最も純粋なシュールレアリスト」と評されたシュルレアリスム画家イヴ・タンギーも両親がブルトンでした。ブルターニュの現代美術はレンヌのFRACブルターニュ に。古代の列石を思わせる庭の列柱はオレリー・ヌムールの作品。そして近年広がっているケルト・アートは少しアングラ気味なタトゥーなどのケルト文様。世界各国にコアなファンを広げています。

 

 

 

 

 

 

 

 

一方こうしたケルト文化ブームとは別に、17世紀ヴィトレでセヴィニェ侯爵夫人はブルターニュの風物や幅広い話題について多くの書簡を書き記し、宮廷文化に影響を与えました。革命期をはさみ18世紀以降の芸術家たちは「旅行」をするようになり、バルザックのほかヴィクトルユーゴーも恋人ジュリエットとブルターニュを訪れてインスピレーションを得た作品を生み出します。19世紀にサンマロ生まれのフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは新大陸を描いたロマン主義文学を著しました。港町で育まれた想像力で世界中を驚かせたのはナント出身のジュール・ヴェルヌ。ジャケ・エリアスの「誇り高き馬」。またトレギア出身の宗教史家エルネスト・ルナンは『イエス伝』によって初めてイエスを人間として描き出し、ヨーロッパ中から抗議が殺到します。そうした流れの中で再評価されたのが、ローマ文化の影響を得ずに残されたケルト系キリスト教でした。殉教者がなく広められたという実績は他宗教への寛容を示し、自然と調和する思想が今世紀にも注目されています。

ブルターニュの巨石文化は紀元前5000年もの新石器時代にさかのぼり、ケルト人 以前の先住民による遺跡と言われています。ヨーロッパでは巨石記念物(メガリス)がキリスト教徒によって組織的に倒されますが、自然崇拝の続くブルターニュでは多く残されました。

単一で直立した立石メンヒル(menhirブルトン語の「長い石」を意味する単語に由来しますが、どのような意図で立てられたのかは解明されておらず、メンヒルを立てた人々の言語も分かっていません。Kerloasにある9.5メートルで立つメンヒルは最も高く、またかつて約20メートルの高さがあったロックマリアケールの4つに割れた巨石もあります。

カルナック列石3000以上のメンヒルが3つのグループに並べられ、東西数キロメートルにわたって整列しています。長方形の対角線の延長が夏至・冬至の日の出、日の入りに合っているなど太陽崇拝の関連性があるようです。

ブルトン語で「石の机」を意味するdol menを語源とするドルメンはブルターニュ地方に多く見られ土に覆われた古代の有力者の古墳でした。紀元前6500-4500年にはヨーロッパ全域に農耕が普及し、上級階層の墓として徐々に巨大な支石墓へ発展したと考えらます。その後上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた紀元前2000年頃には西ヨーロッパの支石墓は消滅し、土も風雨により流されて巨石が露出しています。

石墓の副葬品からは美しい工芸品も発見されました。翡翠で作られた装飾が施された飾斧、calaïsという緑の石で造られたジュエリーと見事なネックレスもみつかります。ガイヤール城(夏期のみ)カルナック先史時代博物館またロッシュフォールアンテールの中世村の隣にある先史時代パークでは50万年前の原人からの生活が再現されています

紀元前1800年頃、銅と錫の鉱脈が豊富なブリテン島南部とブルターニュで青銅器の製造が始まり、ウェセックス文化又はアルモリカ文化と呼んでいます。その後8世紀頃、ヨーロッパに初めて鉄を使いこなす民族が現れました。 後にギリシア人により、ガリア人、ケルト人と呼ばれた彼らが、ヨーロッパ人の先祖「ケルト民族」です。 紀元前の500年間には、その活動範囲、高度な文化の面でも絶頂期を迎え、ローマ人によって支配されるまでの間、ヨーロッパ全土で栄華を誇ります。かつては前12世紀~前6世紀の中部ヨーロッパの鉄器を中心とするハルシュタット文化、前5~後1世紀の中部ヨーロッパからイタリア北部にかけては具象描写が装飾的なラ・テーヌ文化、そしてアルモリカでは幾何学的な装飾が特徴でした。

古代ケルト人の自由の精神は、度重なる民族移動、多神教、また見るものに解釈の自由を残すという芸術表現に現れています。優れた農耕技術をもつケルト人たちは、ヨーロッパを穀倉にしました。この農本主義経済がケルトに豊かな富をもたらし、彼らの自由な精神性の基盤となります。豊かさは絢爛豪華な彼らの装飾芸術にも象徴されています。トルクと呼ばれる首飾りなど装身具の装飾、生活用品に施された模様の緻密な技巧。自然をモチーフにしたものが装飾性を増し、幻想的な模様へと進化をとげていきました。

テムズ川で発見されたバタシーの盾は、紀元前54年シーザーがテムズ川を越えてきた際のケルト戦士のものらしく、美しい武具を身に着けた戦士の高貴さが今に伝わってきます。

彼らは曲線を好んで用いました。ローマ人の用いた直線はその有限性が好まれず、ケルト人たちの間にはあまり広まりませんでした。迷宮のような曲線模様には始まりも、真ん中も、終わりもなく、外に向かっていたものがいつしか内へ収斂していきます。渦巻き模様の多用、内側に同じような模様が繰り返されるフラクタル的な模様もみられます。このケルトの人々の自由奔放性、不確実性への嗜好は、自然というものを捉えていた彼らの視点を透かしてみせてくれるようです。私たちが今世紀になって証明した科学も古代ケルト人たちの目には既に明らかだったのかもしれません。合理主義によって忘れられようとしている、人間のもつ想像力やひとつのものを多面的に捉える姿勢。ケルトの文化遺産を、今日の皆さんの心のどこかにぜひつないでいただきたいです。

  先史時代から中世までのブルターニュの美術品はレンヌ図書館併設のmusée de Bretagneに分かりやすくまとめられ、またカンペールの県立博物館にも良いコレクションがあります。

ローマ人侵入後も人々は神秘的な生活を続けます。ドルイドDaru-vidは「オークの賢者」の意味で、万能薬ヤドリギの巻きついたオークの木の下で儀式を執り行い、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたそうです。ガリアのドルイドは自然科学ピタゴラス派の影響で学問の体系化と組織的教育を行いますが、アルモリカやブリタニア、ヒベルニア(アイルランド)のドルイドは祭祀者のまま衰退しました。彼らが政治の表舞台から姿を消すと、人々は古い習慣を自ら守ろうとし、何世紀もの間因習にとらわれた日々を送ることになります。

ケルトの諸部族には共有する神は居ず、政治的に統一されることがありませんでした。ローマのマルス神はレンヌの守護神ムッロと同一視されてマルス・ムッロ寺院が造られたり、ヴィレンヌ川守護のウィシヌス・マルス神という合名神へ捧げた石板も出土するなど、他民族の神々とも共存していきます。

キリスト教が導入されてからも、人々は隆起した石を崇め続けます。巨石崇拝の慣習がキリスト教にも許容されたのは、サンテュズーのメンヒル menhir de Saint-Uzecのように彼らなりの信仰心から石に十字架を刻んだためでした。後年十字が刻まれたメンヒルは、今でも十字の石柱として路傍に数多く立っています。

ナントで453年、レンヌ・ヴァンヌでは461年からキリスト教宗教会議が開かれ内陸からのキリスト教流入が行われました。沿岸部ではウェールズからは次々と修道僧が渡来し、ドルドブルターニュに聖サムソン、聖ポール(レオン)、聖ブリアック(サンブリユー)、聖マロ(サンマロ)などが布教をはじめ、創始7聖人の開いた聖堂7か所を巡るツアーもあるほど信仰を集めています。布教にあたっては自然信仰を利用しつつ改宗を進める方法が取り入れられましたが、この時代はブリテン島からブルトンが再来し、ブルターニュはますますケルト文化がますます濃くなっています。

111日、2日の万聖節はフランス全土で大移動があり、墓参が行われる重要な日で、聖人だけではなく先祖、身寄りのいない死者、埋葬されない海難者など全ての死者に皆で祈りを捧げます。このキリスト教化した祭日は、実はケルト新年と諸聖人の祝祭が起源で、英語でサウィーンSamhainという古代ケルトの最も重要な祝祭でした。

ブルターニュでは前夜に聖霊が集まると信じられ、家の周囲に蝋燭を灯して悪霊を驚かせる風習が近年まで続いていました。カボチャを灯すハロウィンの祭りがそれで、移民により伝統が継がれたアメリカから逆輸入されて復活しました。降誕祭(クリスマス)も元々ケルトの冬至の祭りがキリスト教化したものという研究者の見解です。ほかにも夏至である聖ヨハネの日の焚火で太陽に力を与える儀式や、年に一度信者が恩赦を願って聖域巡礼を行うパルドン祭が続いています。中でもロクロナン村の伝統衣装で一週間巡礼を行うトロメニーは美しい祭礼として知られています。

このようにキリスト教は数世紀をかけて人々の絆や死者への敬意といった概念を取り入れ、異教とその神秘を共有します。またブルターニュの人々はローマ文化やキリスト教と融合し、信仰によってインスピレーションを得たアーティストたちは、自由の精神を保ちながら伝統を忠実につないでいきました。

7~9世紀の修道院で装飾写本が制作されて、ケルト美術に新たな発展が生み出されました。世界で最も美しい本と呼ばれる8世紀の聖書「ケルズの書」などテクストと装飾文字の視覚とで神力が現れそうです。渦巻き、組みひも、動物などをモチーフとした写本の文様はタラ・ブローチなどの工芸品にも共通し、ラ・テーヌ期よりも強調された装飾性に圧倒されます。またこの時期独自の書体「インシュラー・ハーフ・アンシャル体」がウェールズとブルターニュ共通で使われ始め、ケルト文字として今日アイルランドで使用が勧薦されています。

ブルターニュ花崗岩のベージュや灰色の建物と街並みは、初めて訪れる人に重苦しい印象を与えますが、新しさや古さを感じさせずに調和の風景を作り出しながら何世紀もの風雨をのりこえて残されています。しかし中世にフランス侵攻や海岸からの襲撃に備えて建造された石造りの巨大な城砦は、宗教施設とは異なり、苔むして荒廃の一途を辿りました。フジェール城のような規模と堅固な作りは当時の激しい攻防を想像できます。

宮殿も兼ねた城も後年作られ、その後はサンマロなど17世紀の軍事技術者ヴォーバンの建築理論が導入された海岸線防御の城砦も造られます。ただ全体としてブルターニュの城に共通する点は、代々の城主は日頃から剣を身に着け質素な生活を送り、自ら農園経営に熱心なかわりに城内の装飾にあまり熱心でなかったことです。

そんな中世に花開いた騎士道物語の元はブルトンたちが口承で伝えてきた数々の物語です。

古代ケルトではアイルランドのハープに象徴されるように、音楽や芸術が大切にされてきました。日本人になじみの深い蛍の光などスコットランドやアイルランドの民謡も、古代からの謡が大切にされてきたのです。歌い手として高い地位をもつバルド(吟遊詩人)が、一族の歴史と系図を朗読して英雄伝を語りました。そこから口承文芸も生まれ育ち、神々や英雄、獣、自然などをたたえる様々な話が生まれました。超自然的な存在や、神秘的なことがらが大切にされたブルターニュでは特に不思議な話、陽気なほら話、歴史と冒険の話など、あらゆる伝説の宝庫となります。また中世の暗い夜に耳を傾けた人々の想像力を呼び起こしたように、口承で伝えられた吟遊詩人の発する言葉と力強い寓話の骨格は、「アーサー王物語」をはじめ、誰もが知る「ガリバー」、「ピーター・パン」、「人魚」などの物語のもととなり、現代の芸術家にも影響を与えています。

バルドの伝承を記した12世紀の『ブリタニア列王史』にはシェイクスピアのリア王のモデルと言われる紀元前5世紀のレイア王物語、また5世紀後半のアーサー王の物語があります。魔力を持つメルランが湖の妖精ヴィヴィアンに愛されて森に閉じ込められる物語は同じ作者の詩『メルランの預言』が元で、メルランはケルト賢者として描かれていました。またリンゴの島アヴァロンを治めるモーガン・ル・フェイは学識と医術でアーサー王を助ける女ドルイドを想起させる人物像ですが、後年騎士道文学では妖術使いの魔女と描かれてしまいました。

ブロセリアンドの森に運ばれたキリストの聖杯をアーサー王とランスロら12人の騎士が探す円卓の騎士物語、コルヌアイユ王マルクが求婚するイゾルデを取り戻そうと甥トリスタンをアイルランドに遣わし、帰路の船で間違って媚薬を飲んだトリスタンとイゾルデが恋に落ちてしまう物語なども加わり、中世騎士道文学は宮廷の人々や民衆を夢中にしました。

またほかにも6世紀コルヌアイユの姫ダユーが町を守る水門の鍵を悪魔に渡してしまい、首都イスが水没する説話がありますが、元々のイス物語は少し違っています。平和で豊かな国、コルヌアイユの王グランドロンは、首都イスに教会を建てよというローマの要請に対して、既に建物が過密な街中ではなく街の外を提案しました。

この地で布教をしていた修道士コランタンとゲノレはその提案に理解を示しますが、ローマは街を滅ぼして教会を建てるという命令で、市民は驚きます。
王は仕方なく街中の教会建設を受け入れますが、大地を愛する娘のアエはアレ山に登ってケルト神ケルヌノスの助けを求めます。夜町を救いに来るからとアエを町に返したのですが、夜には大水が来て町は水没し、王と2人の教徒だけが救われたという物語です。海の中の人々は今でも永遠の生を得るのですが、悲しみの王は同じ場所に街を造らず、カンペールを首都としてコランタンと共に聖堂を造りました。現在ではアエは山の精に堤防を造ることを相談に行ったと考えられ、ブルターニュでも海岸地方の水害が時々起こることを子孫に言い伝えたと思われます。

吟遊詩人たちとは別に、修道院ではラテン語で歴史、キリスト教史、道徳と哲学を学んでいました。ブルターニュの聖人の物語が修道院で書かれたり、普遍は存在しないという唯名論を起こしたアベラールが12世紀に現れますが、15世紀にナント大学が創設されると歴史家や詩人など多くの作家を輩出するルネサンス時代を迎えます。

ケルトの風習の一部はキリスト教にも取り入れられて公のものになりましたが、ブルターニュでは異教的とされた民間信仰も多く残されました。妖精コリガン、コビト伝説などのほか、魂が帰ってくる夜に掃除をしてはいけないというような異界との交流を避ける知恵や、休息日である日曜に洗濯をすると罪の赦しを請わなければならない、といった因習です。病気ごとに奇跡治癒の諸聖人がいたり、民間人にも病気治癒の霊能者がいると信じられ訪ねに行くことが現在でも続いています。16世紀半ばから西欧で盛んになった魔女狩りもブルターニュでは稀だったことも、それだけ俗信が根を深く下ろしていたと言えます。異教を退散させる象徴として聖ミッシェルをブルターニュの入口(モンサンミッシェル)やアレ山地に据えたなど、教会はそうした因習の排除につとめていました。

 

一方16世紀キリスト教では、宗教改革にが盛んになり、カトリック教会も刷新が行われます。洗礼と聖体拝領以外の秘跡を認めない新教に対し、トリエント公会議(154563)の結果、カトリック教は秘跡を中心とした教会生活を再興します。これによって異教的な伝統があるブルターニュですが、却ってカトリック教会への帰依がますます強くなったのでした。1660年に開学したレンヌ神学校では聖職者養成が始まり、修道院の建設も盛んになります。17世紀に入ってカトリック教会は妖術使いや占いなどを断罪し、迷信の一掃を図りますが、真の布教がなされていなかった地区では困難を極めました。悪魔祓いには信仰を持って十字を切ったりお祈りをするとよい、などと説明するしかなかったこともありますが、聖史劇や図絵を用いた視覚に訴える布教方法は功を奏し、ブルターニュに数々の宗教芸術をもたらします。

ブルターニュがフランスに併合されてから享受した平和と大航海時代の繁栄。蓄積された富は建築物に向かいます。16世紀から17世紀にかけてのバロック建築ではブルターニュ地方独特の特徴が加わり、建物内外の美術に一連の様式が生み出されました。教会内のアンクロ・パロワシャルという区画は門と塀による囲いのある聖域で、凱旋門から入り墓地・納骨堂を通って荘厳な入口を構えた聖堂と鐘楼、そしてキリストの生涯を彫刻したカルヴェールなどが配置されます。囲いの中心に墓地があることが多く、死を日常のものとするケルトの精神生活が復活したかのようです。教会の鐘楼である高い塔は民衆の誇りとなり、人々が集う大きなポーチが南側に設けられました。フレスコ画は少なく、教会の柱や内壁、祭壇に過密な宗教彫刻が施されていることも特徴です。秘跡の大切さを教えるために製作された立派な洗礼所、告解室、祭壇飾り、オルガン装飾、聖人の像、よい臨終を想起させる聖ヨゼフ、結婚の秘跡性を教える聖家族など、当時の反宗教改革が力を入れたカトリック信仰教育のポイントが見てとれます。この聖堂囲い地は数多くあり紹介しきれないほどですが、フィニステール県の案内はこちら またフランスでは少ない聖アンナと聖母子の三位一体のテーマが、ブルターニュの教会装飾に多いことは、聖母の母であるアンナがヨーロッパ文化の母体であるケルトを象徴しているからとも、アンヌドブルターニュへの追慕からとも言われています。


彫刻家たちの情熱は教会外へも飛び出し、過度ともいえる装飾が施された家具にも現れました。Lit Closと呼ばれる独特の箱ベッドなどブルトン家具は各地の博物館を訪ねてみてください。

また17世紀末、ロクマリアの南で産出する砂岩質の粘土を利用したカンペール陶器は、太陽、海、花、鳥などが文様的に描かれた伝統工芸です。カンペール陶器博物館は工房見学や古くからのコレクションを鑑賞できます。300年後の今も続くこの陶器の伝統模様は一人の芸術家だけで作り得ない価値を宿し、壮麗さを抑え、自然の風物とともにありたいと願った何千年もの昔からの心を時代を超えて私たちと分かち合うことができるようです。

この時代、ブルターニュに聖職者が増えるにつれ学問が盛んになり、「ギリシャ・ローマに先んじたガリアがフランスの起源である」という思想が築き上げられていきます。ヨーロッパでは支配者たちの人口移動は男性を中心に数パーセントに過ぎず、言語は支配者のものと代わっても、ヨーロッパ人は大多数のケルト民族の子孫であることが考古学的にも明らかになってきました。フリーメイソンの生みの親ジョン・トウランドは、1717年に「古代ドルイド団」を結成するなど、ケルト復興の兆しが起こります。

18世紀に現れたケルトマニアに続き、学術分野でも19世紀にはケルト学が盛んになります。考古学の発展につれてケルト人が後年ガリア人と呼ばれたことが確認され、レンヌ大学ではケルト語の講義が始まりました。

ケルト文化の発掘は18世紀ベートーベンが「庭の千草」を含む140曲ものケルト民謡の編曲作品に現れるなど、大きな文化的潮流を生み出します。日本でも明治から大正期、文学や音楽に大きな影響が与えられました。文部省唱歌として選ばれた讃美歌・西欧音楽の中には多くのケルト民謡が含まれ、「蛍の光」などは地元スコットランドより日本人により多く歌い継がれているのです。大戦後はマンガのアステリックスがフランス人にシーザー時代のガリア(ゴロワ)人のイメージを伝えました。またケルト民謡を演奏するミュージシャンが増え、フォーク音楽やロックと民謡の融合などに裾野がひろがります。1970年代からロックのトリ・ヤン、ケルトハープを蘇生したアラン・スティヴェルが代表するブルトン音楽の再興として知られています。日本でもアイルランドのエンヤがケルト音楽旋風を巻き起こしたことも最近のことです。ほかにもロリアンのインターセルティック祭、カンペールのコルヌアイユ民族音楽祭、そうした大きな祭典ではなく日常的に伝統ダンスパーティー「フェスノズ」があったり、路上やバーやレストランでビニュー奏者が演奏したり、ホームパーティーでも食事後ブルトン音楽が流れて輪になって踊ることが伝統として続いています。

19世紀には鉄道もなくぽつんと孤立した田舎町、ポン=タヴェンに突如画家たちが集まり、流行の土地となりました。ブルトン語や民族衣装が保存された小さな町と田園地帯は、画家たちのインスピレーションをかきたて、既存のアカデミズムの絵画に飽き足らず新しい絵画技法を探究するポン=タヴェン派の誕生です。このポール・ゴーギャンエミール・ベルナールポール・セリュジエ、らの作品をレンヌ美術館、(ラトゥールの「みどり児」もお見逃しなく)、カンペール市美術館ブレスト美術館など本場の豊富なコレクションからお気に入りの一枚を発掘してみてください。

20世紀、ブルターニュで青年期を過ごしたアンドレ・ブルトンに「最も純粋なシュールレアリスト」と評されたシュルレアリスム画家イヴ・タンギーも両親がブルトンでした。ブルターニュの現代美術はレンヌのFRACブルターニュ に。古代の列石を思わせる庭の列柱はオレリー・ヌムールの作品。そして近年広がっているケルト・アートは少しアングラ気味なタトゥーなどのケルト文様。世界各国にコアなファンを広げています。

一方こうしたケルト文化ブームとは別に、17世紀ヴィトレでセヴィニェ侯爵夫人はブルターニュの風物や幅広い話題について多くの書簡を書き記し、宮廷文化に影響を与えました。革命期をはさみ18世紀以降の芸術家たちは「旅行」をするようになり、バルザックのほかヴィクトルユーゴーも恋人ジュリエットとブルターニュを訪れてインスピレーションを得た作品を生み出します。19世紀にサンマロ生まれのフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは新大陸を描いたロマン主義文学を著しました。港町で育まれた想像力で世界中を驚かせたのはナント出身のジュール・ヴェルヌ。ジャケ・エリアスの「誇り高き馬」。またトレギア出身の宗教史家エルネスト・ルナンは『イエス伝』によって初めてイエスを人間として描き出し、ヨーロッパ中から抗議が殺到します。そうした流れの中で再評価されたのが、ローマ文化の影響を得ずに残されたケルト系キリスト教でした。殉教者がなく広められたという実績は他宗教への寛容を示し、自然と調和する思想が今世紀にも注目されています。

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