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Bienvenue en Bretagne ブルターニュへようこそ!ガレットやシードルなど豊かな食文化を生んだ、フランス ブルターニュ地方をご案内します。



ブルターニュの文化・アート

カトリックとの融合、バロック建築

ケルトの風習の一部はキリスト教にも取り入れられて公のものになりましたが、ブルターニュでは異教的とされた民間信仰も多く残されました。妖精コリガン、コビト伝説などのほか、魂が帰ってくる夜に掃除をしてはいけないというような異界との交流を避ける知恵や、休息日である日曜に洗濯をすると罪の赦しを請わなければならない、といった因習です。病気ごとに奇跡治癒の諸聖人がいたり、民間人にも病気治癒の霊能者がいると信じられ訪ねに行くことが現在でも続いています。16世紀半ばから西欧で盛んになった魔女狩りもブルターニュでは稀だったことも、それだけ俗信が根を深く下ろしていたと言えます。異教を退散させる象徴として聖ミッシェルをブルターニュの入口(モンサンミッシェル)やアレ山地に据えたなど、教会はそうした因習の排除につとめていました。

一方16世紀キリスト教では、宗教改革にが盛んになり、カトリック教会も刷新が行われます。洗礼と聖体拝領以外の秘跡を認めない新教に対し、トリエント公会議(1545~63)の結果、カトリック教は秘跡を中心とした教会生活を再興します。これによって異教的な伝統があるブルターニュですが、却ってカトリック教会への帰依がますます強くなったのでした。1660年に開学したレンヌ神学校では聖職者養成が始まり、修道院の建設も盛んになります。17世紀に入ってカトリック教会は妖術使いや占いなどを断罪し、迷信の一掃を図りますが、真の布教がなされていなかった地区では困難を極めました。悪魔祓いには信仰を持って十字を切ったりお祈りをするとよい、などと説明するしかなかったこともありますが、聖史劇や図絵を用いた視覚に訴える布教方法は功を奏し、ブルターニュに数々の宗教芸術をもたらします。

ブルターニュがフランスに併合されてから享受した平和と大航海時代の繁栄。蓄積された富は建築物に向かいます。16世紀から17世紀にかけてのバロック建築ではブルターニュ地方独特の特徴が加わり、建物内外の美術に一連の様式が生み出されました。教会内のアンクロ・パロワシャルという区画は門と塀による囲いのある聖域で、凱旋門から入り墓地・納骨堂を通って荘厳な入口を構えた聖堂と鐘楼、そしてキリストの生涯を彫刻したカルヴェールなどが配置されます。囲いの中心に墓地があることが多く、死を日常のものとするケルトの精神生活が復活したかのようです。教会の鐘楼である高い塔は民衆の誇りとなり、人々が集う大きなポーチが南側に設けられました。フレスコ画は少なく、教会の柱や内壁、祭壇に過密な宗教彫刻が施されていることも特徴です。秘跡の大切さを教えるために製作された立派な洗礼所、告解室、祭壇飾り、オルガン装飾、聖人の像、よい臨終を想起させる聖ヨゼフ、結婚の秘跡性を教える聖家族など、当時の反宗教改革が力を入れたカトリック信仰教育のポイントが見てとれます。この聖堂囲い地は数多くあり紹介しきれないほどですが、フィニステール県の案内はこちら またフランスでは少ない聖アンナと聖母子の三位一体のテーマが、ブルターニュの教会装飾に多いことは、聖母の母であるアンナがヨーロッパ文化の母体であるケルトを象徴しているからとも、アンヌドブルターニュへの追慕からとも言われています。

彫刻家たちの情熱は教会外へも飛び出し、過度ともいえる装飾が施された家具にも現れました。Lit Closと呼ばれる独特の箱ベッドなどブルトン家具は各地の博物館を訪ねてみてください。

また17世紀末、ロクマリアの南で産出する砂岩質の粘土を利用したカンペール陶器は、太陽、海、花、鳥などが文様的に描かれた伝統工芸です。カンペール陶器博物館は工房見学や古くからのコレクションを鑑賞できます。300年後の今も続くこの陶器の伝統模様は一人の芸術家だけで作り得ない価値を宿し、壮麗さを抑え、自然の風物とともにありたいと願った何千年もの昔からの心を時代を超えて私たちと分かち合うことができるようです。

この時代、ブルターニュに聖職者が増えるにつれ学問が盛んになり、「ギリシャ・ローマに先んじたガリアがフランスの起源である」という思想が築き上げられていきます。ヨーロッパでは支配者たちの人口移動は男性を中心に数パーセントに過ぎず、言語は支配者のものと代わっても、ヨーロッパ人は大多数のケルト民族の子孫であることが考古学的にも明らかになってきました。フリーメイソンの生みの親ジョン・トウランドは、1717年に「古代ドルイド団」を結成するなど、ケルト復興の兆しが起こります。

ケルト文化の復興

18世紀に現れたケルトマニアに続き、学術分野でも19世紀にはケルト学が盛んになります。考古学の発展につれてケルト人が後年ガリア人と呼ばれたことが確認され、レンヌ大学ではケルト語の講義が始まりました。

ケルト文化の発掘は18世紀ベートーベンが「庭の千草」を含む140曲ものケルト民謡の編曲作品に現れるなど、大きな文化的潮流を生み出します。日本でも明治から大正期、文学や音楽に大きな影響が与えられました。文部省唱歌として選ばれた讃美歌・西欧音楽の中には多くのケルト民謡が含まれ、「蛍の光」などは地元スコットランドより日本人により多く歌い継がれているのです。大戦後はマンガのアステリックスがフランス人にシーザー時代のガリア(ゴロワ)人のイメージを伝えました。またケルト民謡を演奏するミュージシャンが増え、フォーク音楽やロックと民謡の融合などに裾野がひろがります。1970年代からロックのトリ・ヤン、ケルトハープを蘇生したアラン・スティヴェルが代表するブルトン音楽の再興として知られています。日本でもアイルランドのエンヤがケルト音楽旋風を巻き起こしたことも最近のことです。ほかにもロリアンのインターセルティック祭、カンペールのコルヌアイユ民族音楽祭、そうした大きな祭典ではなく日常的に伝統ダンスパーティー「フェスノズ」があったり、路上やバーやレストランでビニュー奏者が演奏したり、ホームパーティーでも食事後ブルトン音楽が流れて輪になって踊ることが伝統として続いています。

19世紀には鉄道もなくぽつんと孤立した田舎町、ポン=タヴェンに突如画家たちが集まり、流行の土地となりました。ブルトン語や民族衣装が保存された小さな町と田園地帯は、画家たちのインスピレーションをかきたて、既存のアカデミズムの絵画に飽き足らず新しい絵画技法を探究するポン=タヴェン派の誕生です。このポール・ゴーギャンエミール・ベルナールポール・セリュジエ、らの作品をレンヌ美術館、(ラトゥールの「みどり児」もお見逃しなく)、カンペール市美術館ブレスト美術館など本場の豊富なコレクションからお気に入りの一枚を発掘してみてください。

20世紀、ブルターニュで青年期を過ごしたアンドレ・ブルトンに「最も純粋なシュールレアリスト」と評されたシュルレアリスム画家イヴ・タンギーも両親がブルトンでした。ブルターニュの現代美術はレンヌのFRACブルターニュ に。古代の列石を思わせる庭の列柱はオレリー・ヌムールの作品。そして近年広がっているケルト・アートは少しアングラ気味なタトゥーなどのケルト文様。世界各国にコアなファンを広げています。

一方こうしたケルト文化ブームとは別に、17世紀ヴィトレでセヴィニェ侯爵夫人はブルターニュの風物や幅広い話題について多くの書簡を書き記し、宮廷文化に影響を与えました。革命期をはさみ18世紀以降の芸術家たちは「旅行」をするようになり、バルザックのほかヴィクトルユーゴーも恋人ジュリエットとブルターニュを訪れてインスピレーションを得た作品を生み出します。19世紀にサンマロ生まれのフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは新大陸を描いたロマン主義文学を著しました。港町で育まれた想像力で世界中を驚かせたのはナント出身のジュール・ヴェルヌ。ジャケ・エリアスの「誇り高き馬」。またトレギア出身の宗教史家エルネスト・ルナンは『イエス伝』によって初めてイエスを人間として描き出し、ヨーロッパ中から抗議が殺到します。そうした流れの中で再評価されたのが、ローマ文化の影響を得ずに残されたケルト系キリスト教でした。殉教者がなく広められたという実績は他宗教への寛容を示し、自然と調和する思想が今世紀にも注目されています。

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